玉川小学校・校区紹介 |
|
宗五郎神社と木附神社 |
御嶽神社 |
御嶽(おんたけ)神社
JR中央線定光寺駅近くの玉野東谷公園から急な坂道をしばらく登ると、御嶽神社があります。正式な名称は「神道大教御嶽神社」といい、慶応3年(1867)の創建と伝えられています。
明治8年(1875)に玉野御嶽講社ができて玉野区の全戸が講社員となり、盛大になりました。明治15年(1882)に山の下から現在地近くに社を移し、玉野・外之原のほか、近在の下原・水野・沓掛(くつかけ)・下半田川方面からも講社員が集まるようになりました。その後一時衰えましたが、明治21年(1888)に加藤豊覚(ほうかく)氏によって復活し、明治44年(1911)に現在地に祀られました。
毎年夏と冬の2回、御嶽講を組んで木曽の御嶽山へ参詣(さんけい)します。近年の参加者は毎回数十名程度ですが、多いときにはバス4台を連ねて参詣したこともあったそうです。
祭礼は4月15日に近い日曜日で、霊神(れいじん)祭、大祓(おおはらい)祭を行い、餅が投げられます。普段でも、病気が治るようにとお参りする人が多いそうです。
木附神社 |
若宮八幡宮木附神社
高蔵寺ニュ−タウンの東の端、木附との境近くに若宮八幡宮木附神社があります。
木附神社がいつごろ祀られたのかはっきりしませんが、明治16年(1883)に上平山に鎮座(ちんざ)という記録があり、こんな話が残っています。
御嶽山初代先達の豊覚霊神が祈祷(きとう)の折り、「木附向組に鎮座されていては陽当たりなど悪く、木附は発展しない。上平山に鎮座すれば、木附は長者になり蔵が建つ」といわれました。当時の区長初代右高金二さんが先頭に立って上平山に社を移したところ、大正8年(1920)までの35年間に41戸に蔵が建ったといいます。
社を移してから90年程たって社殿も老朽化してきたため、高蔵寺ニュ−タウンの造成を機に、区長の右高留雄さんらの骨折りにより、昭和47年(1972)に名古屋若宮八幡宮の分身を迎えて現在地に祀られました。
木附神社の境内には、山の神社、護国神社も祀られています。
佐倉宗五郎神社 |
佐倉宗五郎大明神
木附神社と隣り合わせに、佐倉宗五郎(さくらそうごろう)大明神が祀られています。ここに社が祀られたいわれを調べてみましょう。
明治11年(1878)から16年(1883)にかけて、川平(かわひら)山や隠れ山の所有権をめぐって外之原村(木附を含む)の農民と沓掛(くつかけ)村(瀬戸市)の士族の間で裁判が起こりました。一審で敗訴した外之原村の農民は大審院(だいしんいん・今の最高裁判所)へ上告し、千葉県の宗吾霊堂(れいどう)に参拝して裁判に勝てるように祈りました。その結果、東春日井郡長だった堀尾茂助らの助けもあって、大審院で逆転勝訴を勝ち取ることができました。村人達は、これを記念して木附に碑を建て、佐倉宗五郎大明神を祀りました。碑には宗五郎および一緒に処刑された4人の子供らの戒名(かいみょう)が刻まれています。
以前は現在地近くの山中にありましたが、ニュ−タウンの造成により木附神社と共に現在地に移されました。
毎年、旧暦の8月3日(現在は9月5日)に祭礼を行ってきましたが、平成元年(1989)に当時の裁判記録が発見されたのを機会に、三好照生宗吾霊堂第26代管長や当時の農民の子孫ら80人が出席して、盛大な法要が営まれました。また、平成6年(1994)は佐倉宗五郎大明神を祀って110年目にあたり、大祭が営まれました。
江戸時代の人で、本名は木内惣五郎といいます。
下総国(今の千葉県)佐倉藩藩主の重税などの圧政に耐えかねていた農民達を代表して、庄屋の惣五郎が将軍家綱に直訴(直接訴えること)しました。その結果農民達は藩主の圧政から救われましたが、惣五郎ははりつけになり、家族の者も打ち首になりました。
その後、木内惣五郎は農民を守る神様として、「佐倉宗五郎大明神」の名で各地に祀られるようになりました。
天 王 社
玉野・木附には、天王社が祀られています。天王社は牛頭(ごず)天王社の略称で、津島社ともいいます。明治40年(1907)頃、この地方に疫病(えきびょう)が流行して多くの子供達が亡くなったとき、天王様を祀ったところ治まったことから、「夏病みしない」、「伝染病にかからない」などの願いを込めて各島毎に祀られています。
玉野の天王社 |
○玉野の天王社
玉野の天王社は、五社神社の参道入り口付近(火の見やぐら横)にあります。
新しい県道ができる以前は天王社の前に広場があり、その脇に2本の檜(ヒノキ)の大木がそびえていました。五社神社の参道は両側が一段高くなった歩道があり、真ん中は祭りのときに飾り馬が走る以外は通れなかったそうです。新しい県道の建設に伴って、参道の入り口付近にあった鳥居は神社の前に移されました。
以前は天王社前の広場で祇園(ぎおん)祭りが行われていましたが、広場がなくなった現在は五社神社の前で行われています。
木附の天王社 |
○木附の天王社
木附の天王社は、字釜前(あざかままえ)の郷蔵(ごうぐら)やコミュニティセンタ−のある一角に祀られています。
祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、火具都知命(かぐつちのみこと)です。いつから祀られたかはっきりしませんが、文政2年(1819)に修復されたと記された棟札があります。その後、江戸時代から昭和にかけて8回再建されています。現在の社は大正14年(1914)に建てられたもので、昭和62年(1987)に当時の区長右高留雄さんを奉賛会長として、大改修されました。
木附には神社がない(郷社は外之原の白山神社)ので、社の中心に天王社、左に巌島(いつくしま)社、右に秋葉社が合わせて祀られています。天王社前の広場では、祇園祭りが盛大に行われていました。また、秋祭りには棒の手・獅子(しし)舞いが奉納されます。