玉川小学校・校区紹介 |
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石高家の先祖神 |
○秋葉さま
秋葉神社 |
秋葉神社常夜灯 |
隠山(かくれやま)字長根山の頂上、標高130mの所に、木附の秋葉様が祀られています。祭神は火伏せ(火事を防ぐ)の神、陶工の神として知られる火具都知命(かぐつちのみこと)で、文政7年(1828)に遷座(この地に移して祀った)されました。その後、安政5年(1858)、大正2年(1913)、昭和62年(1987)と、3回にわたって再建されました。昭和62年の再建は、鉄筋コンクリ−ト造りの社殿と参道も改修したため、工事には7か月を要しました。
新しい社殿への遷座(せんざ)祭は、行列を組んで参道を登り、社殿の前で式典と棒の手の奉納をした後、農業研修施設前の広場で餅投げがありました。
秋葉山常夜灯箱の各戸巡回は、文政18年(1935)に始まって、現在も続いています。
○山住彦大神
山住彦神社 |
南北朝時代(今から650年位前)に小島又兵衛という南朝方の落武者が玉野に住み着いたそうです。
あるとき、玉野村にはやり病が広まり、亡くなる人も出ました。又兵衛はなんとかしてこのはやり病を治そうと思い、玉野の高い峰に山の神を祀って祈ったところ、はやり病は治まりました。時が過ぎて又兵衛も亡くなると、いつしか村人達は山の神のことを忘れてしまいました。
明治になり、地租改正によって高い峰の地主が決まりましたが、社の祀られた場所は度々地主が変わりました。その後、小島さんのおばあさんが土地を買い取って社を祀り、正月や祭礼に赤飯や餅などを供えて、山の神の世話をしました。
ところが、この土地に玉野台団地が建設されることになりました。そこで、釜戸(かまど・岐阜県瑞浪市)の御嶽教の行者に拝んでもらったところ、山の神は山住彦大神と名乗られ、「他の土地に移ってもよいが、今後一層山の神を敬って拝むように」とのお告げがありました。
このお告げによって、山住彦大神は現在の土地に祀られ、小島さんは毎月1日の朝9時に参拝しています。なお、毎年3月15日と9月15日に春と秋の大祭が行われ、多くの人がお参りに訪れます。
○国平(くにひら)神社
国平神社 |
弘 法 様 |
新田池の横にある小山の急な石段を登ると、ちょっとした広場があり、その奥に国平神社と琴毘羅(こんぴら)神社が祀られています。また、広場から少し下がった所には、大きな石を積んだ社の中に弘法様が祀られています。以前はここに二十二夜様、御嶽様も祀られていましたが、二十二夜様は五所神社へ移され、御嶽様はいつの頃からか無くなったそうです。国平神社は藤箕(ふじみ)の神様で、こんな話が伝わっています。室町時代に清洲の国平という落ち武者が玉野に住み着き、付近の山の藤づると竹で箕を作り、それを売って暮らしていました。やがて、それを真似て作る村人が多くなり、江戸時代には玉野村の農閑期の副業として盛んになりました。特に、尾張藩がこれを特産品として保護して他の藩には作らせなかったので、藤箕は玉野村の特産物になりました。国平神社は村人達が藤箕の神様を祀ったものといわれています。(藤箕については、「農閑期の稼ぎ・玉野の藤箕作り」を見てください。)
戦前から戦後の一時期にかけて、この広場で提灯山を囲んで盆踊りが行われていましたが、現在は8月16日前の土曜日の夜に五所神社前の広場で行われるようになりました。
また、昭和30年頃までは、この広場で12月に青年団のおこもりが行われていました。(青年団のおこもりについては、「年中行事」で載せる予定です。)
○御所中様(ごしょなかさま)
御所中様 |
御所中明神 |
南島の玉野橋の近くに、通称「御所中様」と呼ばれる、後醍醐なか刀自媛(ごだいごなかとじひめ)大神霊斎場(れいさいじょう)があります。御所中様には、次のような言い伝えがあります。
今から660年位前の南北朝時代のことです。後醍醐天皇に仕える南朝方「なか媛」様の一行35名ほどが、信濃の国への道すがら玉野南屋敷の旧家に一夜の宿をとりました。ところが、北朝方(足利軍)に知られることとなり、一夜のうちに闇討ち(やみうち)の憂(う)き目に合いました。なか媛は、敵に討たれるより家臣にと、自らの命を絶ちました。他の従者達も、この場所で無念の最期を遂げました。運よく戦い抜いて玉野川を上り、美濃の国恵那郡まで逃げた者が2名いました。しかし、美濃の国も安住の場所ではなく、討たれた味方の霊を慰める所もなかったので、再び玉野に戻り農民となってなか媛一行の霊を祀ったといいます。なお、一行35名の位牌(いはい)が太平寺に祀られています。
墓はその後荒れてしまい、田の中に塚が残っていました。一時期南島に不幸が続いたので、なか媛一行のたたりではないかということになり、小島さんが中心になって南島の人達が社を建てて祀ったそうです。
また、玉野地区圃場(ほじょう)整備事業の完成を機に、高蔵寺5号古墳の隣りに「御所中明神」の碑が建てられました。
○梶田家の十一面観音
観 音 堂 |
十一面観音像 |
玉野町二軒家の梶田逸夫(いつお)さんの屋敷内に高さ5m程のお堂があり、中には厨子(ずし)に納められた高さ約17cmの十一面観音菩薩の座像が安置されています。左手に薬壷(くすりつぼ)を持ち、右手は施無畏印形(せむいいんぎょう)で膝に置き、蓮台(れんだい)に座っておられます。顔の表情は美しく、気品と慈愛(じあい)を感じさせます。像は全体にすすけており、元はむき出しの観音像の前で毎日線香が上げられていたものと考えられます。
この観音様の由来を伝える記録は太平寺に預けられていましたが、寺の火災により焼失てしまいしました。そのため、由来は不明ですが、南北朝の頃のものと推測されています。観音堂と厨子は、幕末の頃の玉野村出身の宮大工、川地白江守(はくえのかみ)の晩年の作といわれています。
この観音堂には、御詠歌(ごえいか)額1枚と絵馬が奉納されています。この絵馬は文化6年(1806)に木附の武エ門という人が寄進したと伝えられ、明治の初め頃まで続いた篠木合宿の糸巻きの飾りを付けた馬が描かれています。現在ある木附の馬の塔は、この絵をもとにして復元されたそうです。
戦前までは近くの村々からの参詣者も多く、秋祭りには馬の塔や棒の手が奉納されていました。
○信清(のぶせい)神社
信清神社 |
玉野の東の端に信清神社があります。今では、玉野台団地がすぐ上まで迫っていますが、以前は県道下半田川・春日井線から少し北に入った所で、人家もまばらでした。
言い伝えによれば、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで負傷した落武者が、この地亡くなりました。その後、落武者の霊を慰めるために村人達が小さな墓石を建てたということです。墓の北側には小さな池があり、そばに大きな松の木がありました。この松の大木は昭和の初め頃朽ちて倒れてしまいましたが、その松材でお堂を建て、子供達の「山の子」のこもり堂として使われていました。そのためか、信清神社のことを近所の人達は「大松様」と呼んでいます。現在のお堂は、梶田松園(しょうえん)さんが中心になり、二軒家の人々によって昭和57年(1982)に建てられたものです。「信清神社」の名も、梶田松園さんが命名されたそうです。
この神社には、三つの社があります。中央にあるのが信清様で、広瀬信次郎という武士の霊が祀られています。右側にあって風雨にさらされたように見える社は、「山の神」とか「井戸神様」などと呼ばれていたもので、篠原左衛門尉(さえもんのじょう)忠孝と遠山左衛門尉頼房(とうやまさえもんおじょう よりふさ)という二人の武士の霊が祀られています。この二人の武士も小牧・長久手の戦いの落武者で、以前は二軒家の山の中の沢水のわき出る所の近くにあった小さな墓石が二つあったそうです。左側の社には、秋葉様と天王様が祀られています。昭和10年(1935)頃に玉野にはやり病が広まり、二軒家でも何人かの子供が亡くなりました。そこで、疫病退散を願って津島神社から天王様を迎えて祀ったといわれています。
○木附の先祖神
先祖神(右高家) |
先祖神(加藤家) |
木附では、10軒前後の家々で小さな祠(ほこら)を建てて先祖神を祀っています。右高家5か所と加藤家2か所、計7か所の先祖神があり、それぞれ「七軒越し」と呼ばれる木附開拓の祖となった本家によって祠られたものです。以前は毎日お供えなどをしていたそうですが、近年は正月や秋祭りに鏡餅や赤飯・お神酒などを供えるだけの所が多くなりました。今でも、毎日お参りしている信心深い人もいるそうです。また、個人で屋敷神様を祠っている家も二、三軒あります。
右高家の総本家といわれる先祖神は、木附南東のうぐい川近くの田の中にあります。昔は大木が生い茂っていましたが、この木を切ってしまったので近所に不幸が多発したそうです。そこで、昭和14年(1937)に周囲を石積みにして「八幡大明神」の石碑を建てたといいます。戦前は近所の右高家4軒で餅投げをしていたそうです。また、この場所は、現在は佐倉宗五郎大明神の隣りに祀ってある木附神社が祀られていた所という説もあります。