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玉川小学校・校区紹介
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高座山のレーダーサイト |
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校区の西の端、木附町から高蔵寺町にかけての広大な地域に、航空自衛隊高蔵寺分屯(ぶんとん)基地(第4補給処高蔵寺支処)があります。 分屯基地の前進は、昭和16年(1941)に創設された高蔵寺工廠(こうしょう・名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)です。
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旧高蔵寺部隊本部の建物 |
○高蔵寺工廠の建設
工敞の建設は昭和14年(1939)に始まり、昭和16年に完成しました。当時は、中国との 戦争が拡大して太平洋戦争が始まる直前で、現在の春日井市では、高蔵寺のほかにも鳥居松・鷹来(たかぎ)・西山などに大規模な工廠の建設が進められていました。
用地の買収は、非常時ということで、強制的に行われました。木附・高蔵寺(岩成・白山)地区の地主は、昭和14年2月11日に高座小学校の講堂に集められ、第3師団の責任者から説明を聞いた後、買収の文書に強制的に調印させられました。価格は、1反(10アール=300坪)当たり田が550円、畑350円、山林は100円でした。陸軍は、当初、高蔵寺駅付近から高座(たかくら)山を抜けるトンネルを掘って、鉄道で物資を運ぶ計画だったようです。しかし、トンネルを掘るのに時間がかかるので、鹿乗(かのり)橋付近から中央線を分岐し、玉野を通って木附へ抜ける専用線を敷設することになりました。そこで、専用線の用地と物資集積所用地を確保するために、同年11月15日に2回目の買収が行われ、木附・玉野の地主が木附青年会場に集められて買収文書に調印させられました。木附では、民有地の95%近くが買収されてしまったそうです。買収価格は前回より多少上乗せされましたが、代金は軍事債券(さいけん)で支払われました。買収が終わると、すぐに大倉組建設の手で建設工事が始まり、突貫工事により昭和16年6月に弾薬庫が完成し、9月に開所式が行われました。
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専用線のプラットホーム |
○専用線の建設
高蔵寺工廠は、112万9千uの敷地に本部などの建物と、物資集積用の6棟の大型倉庫、砲弾に火薬を詰める作業所、弾薬保管施設などがありました。また、五所(ごしょ)神社の南東には弾薬を入れる木箱の集積所があり、木箱が山積みされていたそうです。使用する火薬や砲弾などの物資は、引き込み線を使って専用列車で運ばれました。引き込み線は鹿乗橋の200m程東で中央線から分岐し、玉野・木附でうぐい川にかかる2つの鉄橋を渡って、工廠のプラットホームに入るルートで、全長が2、8qありました。中央線から分かれる分岐点には信号所があり、助役以下3,4人の駅員がいて、ポイントの切り替えをしていたそうです。また、神領と池田に信号所が作られました。当時、中央線は1日に13本くらいの列車が走っていましたが、単線で列車の待避(たいひ)線(列車のすれ違いのできる所)が大曽根と多治見にしかなく不便なため、神領と池田に信号所を作って列車を待避させたそうです。神領と池田の信号所は、今では神領駅、古虎渓(ここけい)駅になっています。
専用列車が工廠のゲートを入ると二つのプラットホームがあり、これを挟んで5本の線路がありました。物資は、ここでトロッコ(後には軽便鉄道)に積み替えて、工廠の奥の方にあった作業場に運ばれました。プラットホームの北側(現在の自衛隊官舎付近)には転車台(機関車の方向転換所)があり、数人がかりで機関車の乗った転車台を押して回していたそうです。機関車には、中央線を走るD51の半分くらいの大きさのC11が使われていました。
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専用線の鉄橋 |
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専用線の建設や停車場での砲弾の積み下し作業などには、地元である木附・玉野から多くの人たちが勤労奉仕で動員されたそうです。専用線は昭和32年(1957)まで使用され、その後、玉野の区画整理を機に昭和42年(1967)に撤去されました。今も「高蔵寺部隊」の標札のあるコンクリート柱や、正面ゲートの基礎コンクリートの一部が、宮前公園の北側に残っています。
材木など弾薬以外の資材は、馬車やトラックでも運ばれました。現在の玉野の踏切を通る県道は、100mくらい西側にあったものを工廠の建設に合わせて付け替えられました。当時は道幅が狭かったので一方通行にし、高蔵寺方面から来た馬車などは踏切を渡って工廠に入り、木附から定光寺を回って中央線沿いの細い道を通って帰ったそうです。そのため、工廠内には南(入り口)と北(出口)の二つの門がありました。
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高蔵寺部隊正面の標札 |
○工廠の様子
高蔵寺工廠では数百人の作業員が働いていて、戦車砲や高射砲、りゅう弾砲などの弾丸に火薬を詰め、保管するのが任務でした。
名古屋補給廠の作業所で働いたことのある方の話によれば、弾薬を詰める作業は次のようです。火薬は粉末状のTNT火薬で、湿気を嫌うので、縦・横それぞれ30p、高さ1m位の亜鉛製の缶に入っていました。粉末状の火薬をスチーム管が通った箱に入れ、70℃位に熱すると溶けてドロドロになります。これを箱の下についている蛇口からバケツのような容器に入れ、砲弾の中に流し込みます。火薬は冷えて固まると収縮して中心部が空になるので、再び溶けた火薬を流し込んで一杯になるまで詰めます。火薬が詰まった砲弾は、頭部にドリルで信管の入る穴をあけ、蓋をして完成です。出来上がった砲弾は数本ずつ木箱に詰め、保管しておいて戦地に送られました。TNT火薬は安定性が良いので、作業中に爆発するような事故は無かったそうです。高蔵寺工廠には、23か所(終戦時には26か所)の弾薬保管施設がありました。弾薬保管施設は1か所が約200uの広さのコンクリート製で、上に厚さ3m以上の土が盛られた半地下式の構造になっていました。どの保管施設にも、材料の火薬や完成した砲弾が一杯に詰まっていたそうです。
作業員の多くは、地元や近隣の小牧・名古屋・多治見方面からの通勤者でしたが、遠隔地の人は独身寮や社宅に住みました。その中には、学徒動員で動員された学生や、朝鮮から来た人たちもたくさんいたそうです。現在の玉川小学校の敷地の西側は高台になっているので、「スパイが上から工廠内をのぞくといけない」との理由で、工廠の寮が建てられました。払い下げられた寮の一部が、今も民家として残っています。
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米軍の進駐 |
○米軍の進駐
昭和20年(1945)8月、終戦とともに高蔵寺部隊は解散し、10月になると沖縄から米軍の海兵部隊が進駐してきて、弾薬の処理作業が始まりました。保管施設にあった完成した砲弾は、中国への賠償(ばいしょう)品として貨車で積み出されました。盛んなときには、毎日20両近くの弾薬輸送車を送りだしたそうです。また、残っていた火薬は、東谷橋(とうごくばし)下流の庄内川の河原で燃やして処理しました。砲弾の積み出しや火薬の処理作業にも多くの地元の人たちが半ば強制的に動員されましたが、火薬の処理中に火災が発生し、死者8名(玉野4名、下大留4名)と60余名の負傷者が出たそうです。
弾薬の処理が終わり昭和22年(1947)に米軍が撤退(てったい)すると、敷地の一部が農地として地元に払い下げられました。また、昭和23年4月には、旧高蔵寺工廠本部の建物を利用して高座小学校東部分教場の授業が始まり、翌24年4月には玉川小学校が設立されました。同じ頃、旧工廠の別の建物を利用して、玉川保育園も開かれました。学校の設立には校区の人たちも協力し、運動場や講堂も整備されました。
ところが、昭和27年に朝鮮戦争が始まると、弾薬の補給基地とするために極東(きょくとう)米空軍6414部隊(米軍高蔵寺部隊)が進駐し、昭和33年(1958)まで使用しました。そのため、玉川小学校と玉川保育園は旧工廠の寮のあった丘の上に移ることになりました。校地の整地作業は米軍の機械化部隊によって行われ、ブルドーザーがうなりを上げました。玉川小学校は、新校舎が完成するまでの1年近くを、玉野・木附・外之原に分散して授業を行いました。
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盆踊り大会 |
○ 自衛隊高蔵寺分屯基地
米軍撤退後の高蔵寺工廠は、航空自衛隊が高蔵寺分屯基地として使用することになりました。正式には、第4補給処高蔵寺支処といい、航空自衛隊の使う弾薬を保管し、必要に応じて供給する役目を果たしています。また、昭和27年(1952)、米軍が標高193mの高座山山頂に設置したレーダーサイトを利用して、レーダー誘導の訓練をする高蔵寺管制教育分遣隊(第5術科学校第1分校)がありましたが、平成13年7月に閉校になり、レーダーも撤去されました。
校区内には隊員の官舎もあり、基地正門前の広場では毎年夏に地域の人達を招いて盛大な盆踊り大会が行われています。