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玉川小学校・校区紹介


五社神社全景

五社神社

○五社神社

 玉野の集落の北の端に、うぐい川に接して五社神社があります。
 神社の森にはツブラシイやヤマザクラ、アラカシなどの大木が生い茂り、拝殿は小高い丘の上にあるところから、古墳の上に社が祀られたのではないかともいわれていますが、定かではありません。7月の祇園祭りには、鳥居の前でからくり山車が演じられます。また、10月のお祭りには、境内で保存会の人たちによって棒の手や火縄銃の空撃ちが奉納されるなど、地域の人々の心の拠(よ)り所となっています。
 

秋葉神社

 江戸時代に書かれた『張州府誌』に「五社神社は玉野村にある。明神、神明、天神、八幡、多度を祀る。永享元巳酉年(1429)村人之を建てる」と記され、棟札にもこれを裏付けるものが記されています。宮簀姫命(みやずひめのみこと)、須佐之男命(すさのうのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)が祀られていることから五社神社といわれています。
 
五柱の神様はばらばらのように見えますが、日本武尊の伝説に照らしてみると一つの糸のようにつながってきますので、紹介しておきます。
 
須佐之男命は天照大神の弟で、力が強く乱暴な神様でした。

二十二夜様

 ある日、出雲の国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきたので、この剣を天照大神に献上しました。この剣は、その後、日本武尊の叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に伝えられました。日本武尊が東国を平定するために大和を出発し、途中で伊勢神宮に参拝して叔母である倭比売命に別れを告げたとき、倭比売命はお守りとして天照大神から伝えられていた天叢雲剣を日本武尊に授けました。日本武尊は尾張国造(くにのみやっこ)の息子である建稲種命を副将軍にして、共に東国へ出発しました。ところが、駿河(するが)の国(今の静岡県)の豪族が尊をあざむいて野原に誘い出し、火を放ちました。尊は剣を抜いて草を切り払いこの難を逃れたので、この剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)というようになりました。東国を平定した尊は尾張に帰ると、国造の美しい娘、宮簀姫と結婚してしばらく尾張にとどまりました。後に、草薙剣は熱田神宮のご神体になり、今も祀られています。なお、建稲種命は東国から帰る途中で海に落ちて亡くなりますが、熱田神宮や内津神社の祭神になっています。
 境内には、天神社、八幡社、神明社、多度社、粟島社、祇園社、琴毘羅(こんぴら)社、大山祇社、鍬(くわ)社、二十二社の十社が祀られています。明治40年(1907)に村社に指定されました。

○白山神社

白山神社

 木附は、明治22年(1889)の町村制施行によって玉川村に組み入れられるまでは外之原村の枝郷(えだごう)だったので、神社は外之原・細野と共に本郷だった外之原の白山神社を祀っています。
 
白山神社の創建(初めて祀られた)は延長元年(927)といいますから、玉野の五社神社より500年位前に祀られたことになります。これは、外之原は古くから開けていた内津に近く、早くから人々が住み着いて神社を祀ったからだと推測されます。寛延元年(1748)の再建修理の棟札が残っています。ちなみに、内津神社は延喜(えんぎ)式神名帳(当時の政府が全国の神社を調べてまとめたもの)にその名がでてくる式内社です。式内社は、春日井市では内津神社と上田楽町の伊多波刀(いたはと)神社のみです。

 祭神は菊理姫命(きくりひめのみこと)で、境内には神明社、八幡社、厳島社、多賀社が祀られています。菊理姫命は白山媛命(しらやまひめのみこと)ともいわれ、加賀白山宮の祭神で、全国の白山神社で祀られています。女の神様なので性格がおとなしく、それが村の性格にも現れているといいます。神社の祭礼は、例年10月15日前後の日曜日に行われ、保存会の人達によって棒の手や神楽獅子が奉納されています。
 
境内はうっそうとした森に囲まれていましたが、高蔵寺ニュ−タウンの造成に伴ううぐい川の河川改修によって、周囲の景色が一変しました。今もツブラシイやサカキ、ヤブツバキ、シキミ、ネズミモチなどの常緑樹の中にアベマキの大木がそびえ、昔の面影の一端がしのばれます。

○太平寺

太 平 寺

 臨済宗妙心寺派定光寺末の寺で、普光山(ふこうざん)太平寺といいます。
 
明応6年(1498)に今の瀬戸市に建てられたのが寺の始まりです。その後、宝永6年(1709)に南屋敷に移転し、更に、弘化3年(1846)に現在地に移りました。大正11年(1922)に14世戒和尚が本堂および玄関を再建して、現在の形になりました。
 
ご本尊は木造立像(りゅうぞう)の観世音菩薩で、他に、尾張初代藩主義直(源敬公)が玉野川を渡船された折りに使われたという船具のかい2本が伝わっています。

虎鬚庭(こしゅてい)

 境内には、尾張3弘法の一つである冬至弘法大師のお堂があり、毎月旧暦の21日には地域の人々によって扉が開かれ、参詣者で賑わっています。また、清らかなたたずまいの庭園は、虎鬚庭(こしゅてい)となずけられ、禅の精神の一つである「虎一吼(こいっく)」を表現しようとしています。その奥義を記した自然石が庭の西方の木々の間に置かれています。
 江戸時代末期の慶応元年(1865)に太平寺に設立された寺子屋が、明治6年(1873)に現在の春日井市にできた14校の小学校の一つとである三省(さんせい)学校となり、その後の高座小学校や玉川小学校の前身となりました。また、昭和26年(1951)に玉川小学校の校舎が進駐してきた米軍に接収されたときは、一時、玉川小学校の本部として使われました。このように、この寺は玉野で唯一つの寺として村の信仰の中心となったばかりでなく、村民の教育に大きな役割を果たしてきました。
 寺の西に隣接する玉宮(たまみや)稲荷大明神は、何代か前の住職が迎えたものといいます。戦後、梶田銀一さんが中心になって拝殿を造り直し、その後も太平寺の檀徒(だんと)でお守りをしてきました。毎年、旧暦の初午の日にお頭付きや油あげをお供えし、大勢の参拝者があります。物を無くしたときにこのお稲荷様にお参りして頼むと、無くした物が出てくるといわれています。平成11年12月に新しい拝殿が造られ、落成記念の式典が行われました。

玉宮稲荷 玉宮稲荷竣工式
林 昌 寺


○林昌寺

 臨済宗妙心寺派定光寺末の寺で、牛臥山(ぎゅうがさん)林昌寺といいます。林昌寺は木附・外之原・細野を含めた外之原郷で唯一つの寺で、ほとんどの家が檀家になっています。延徳3年(1491)に初めて建てられた寺で、本尊は薬師如来です。
 
寺の縁起を紹介しておきましょう。
 
開山は廻間の住人で林氏昌則といい、毎日山に入って狐や兎を獲る猟師でした。ある日、山奥で道に迷い月の出るのを待っているとき、赤い火の玉に会い、弓に矢をつがえてうつと一匹の白い狐でした。臥牛山(ふせうしやま)の主ではないかと登ってみると、東の隅に一つの石室があり、先ほど放った矢と稲荷大明神の立像がありました。昌則は罪を詫(わ)びて僧になり、稲葉地村(今の名古屋市内)龍雲寺の実鑑(じっかん)について修行しました。その後、名を観空由公と改め、出身の地である臥牛山の麓(ふもと)の虎藪(とらやぶ:今の外之原)にお堂を建てて薬師如来を安置しました。二世は天台宗密蔵院の弟子である恵宗が庵主(あんしゅ・尼僧)として寺を継ぎ、その後、五世の鉄翁自山の時に定光寺要門和尚の徳を慕って禅宗に改めました。その頃、寺社奉行の蟹江覚左エ門が村にまわってきて、観空由公開基の言い伝えにより臥牛山を牛臥山と改め、林氏昌則の2字をとって林昌寺としました。そして、天和3年(1683)に寺を現在の位置に移して、本堂と庫裡(くり)を建てました。
 
寺は明治39年(1906)に焼けてしまいましたが、大正4年(1915)に再建されて現在に至っています。
 
牛臥山には、市内でも数少ない菩提樹(ぼだいじゅ)があります。なお、牛臥山の稲荷は信仰を集め、今も初午の祭礼が行われています。

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