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玉川小学校・校区紹介


木附(後方はニュータウン)

玉川小学校周辺

 玉川小学校の校区は、玉野町・木附町・玉野台団地の三つに分けることができます。もともとは外之原(とのはら)町・細野町も入っていましたが、高蔵寺ニュ−タウンの建設により、昭和55年(1980)に外之原町は石尾台小学校、細野町は東高森台小学校の校区になりました。現在の校区のうち、玉野町・木附町は古くからの集落であり、玉野台団地は平成10年(1998)に入居が始まった新しい町です。平成13年10月現在の児童数は、玉野町53人、木附町42人玉野台団地93人ですが、団地の建設が進むにつれて玉野台の児童数の増加が予想されます。
 玉野台については別の機会に譲ることにして、玉野・木附の二つの集落についてみてみましょう。この二つの集落は今では家並が連なって一体となっていますが、江戸時代までさかのぼると生活圏や習慣が違い、暮らしの様子もかなり違っていたようです。神社は玉野が五社神社、木附が外之原・細野と同じ白山神社で、お祭りも別々に行われています。寺も玉野が太平寺、木附は林昌寺と別々です。また、生活圏は玉野が南の瀬戸(水野・沓掛など)方面との関係が強く、木附は北の下街道筋(内津・坂下など)との関係が強かったようです。それが、明治22年(1889)の町村制施行で、木附は外之原・細野と共に玉川村に組み入れられ、更に、明治39年(1906)に高蔵寺村に編入されて、玉野と木附のつながりが強くなっていきました。以前は玉川小学校と五社神社の間(今の宮島公園辺り)は小高い丘でつながっていて玉野と木附を隔てていましたが、明治33年(1900)に名古屋・多治見間が開通したJR中央線の工事で、線路の盛り土用の土を採ってトロッコで運んだために平地になったといわれています。

玉野

玉野村絵図(近世村絵図集) 玉野川(尾張名所図会)

 玉野川に沿って広がる細長い集落で、中央部のうぐい川東側の平地に住宅と田畑が広がっています。地名のいわれは、集落の南を流れる川が玉のようにきれいな清流なので「玉の川」と名付け、村の名も同じにしたといわれています。また、周囲に緑の山々があり、その間に美しい平野があるので「玉野」と呼んだともいわれていますが、はっきりしません。
 中世には篠木荘(しのぎのしょう)33か村の中の一村だったとの記録が、永享元年(1429)の五所神社の棟札(むねふだ・神社を建てたときにそのいわれを書いた板)にあります。江戸時代の寛文年間(1661〜73)の家の数は48戸、人口は220人で、田畑は約17町歩(約17ha)あり、米の取れ高は256石でした。玉野用水ができるまでは溜め池とうぐい川の水を引いていたので水不足に悩まされましたが、文化年間(1804〜18)に用水が完成して水不足は解消し、田畑も増えました。村全体では山林が多く(約100ha)、藤箕作りが盛んでした。平成13年10月現在の戸数は431戸、人口は1,271人です。
 神社は宮簀姫命(みやずひめのみこと)などを祀る五社神社で、秋祭りには、かっては湯立て、馬の塔(おまんと)、棒の手の神事が行われていました。現在(10月19日前後の日曜日)は、保存会による棒の手と玉野鉄砲隊による火縄銃の空撃ちが奉納されています。また、天王祭り(7月16日前後の日曜日)には、見事なからくり山車が演じられます。
 お寺は、臨済宗妙心寺派定光寺末の太平寺で、明治の初め頃には今の玉川小学校や高座小学校の前身である「三省学校」が開かれていました。

木附(きずき)

外之原村絵図(近世村絵図集)

 玉川小学校から見ると、南は玉野、北は木附から高蔵寺ニュ−タウンの押沢台・石尾台へと家並が連なっています。
 木附は、明治22年に玉川村に組み入れられるまでは、篠木荘33か村の中の一村だった外之原村の枝郷でした。その昔(江戸時代の初め頃か)、本郷(今の外之原町)から7軒の人達が田畑を開いて移り住んだので、「七軒越し(ひちけんごし)」といわれています。今でもそれぞれの祖先を祀った氏神様がありますが、右高家が5か所、加藤家が2か所です。
 外之原村の寛文年間(1661〜73)の家の数は61戸、人口は267人で、田畑は約32町歩(約32ha)、米の取れ高は513石でした。この内、木附がどのくらいだったかは分かりませんが、それほど多くはなかったようです。うぐい川は水量が少なく水不足に悩まされたので、苦労して造った16か所の溜め池の水を分けあって使いました。また、外之原は山が多く、江戸時代には線香の材料になる抹香(まっこう)や薪(たきぎ)を切り出したり、魚の干物を東濃方面に売り歩いたりして生活の助けにしたという記録があります。
 昭和40年代に入ると、高蔵寺ニュ−タウンの建設が進み、ニュ−タウンと家並が連なって景観がすっかり変わり、現在のようになりました。平成13年10月現在の戸数は211戸、人口は561人です。

 神社は外之原町にある白山神社で、延長元年(923)の創建(そうけん)と伝えられる格式のある神社です。祭礼には神楽獅子(かぐらじし)が奉納されますが、これはもともとは悪魔払いの神事で、明治22年頃までは古式にのっとって厳粛(げんしゅく)に行われていました。その後、次第に娯楽性の高い出しものが取り入れられ、簡略(かんりゃく)化されて現在も続いています。神楽獅子の通るコ−スである道行きは、木附天王様と細野奥の院を1年交代で出発点とし、白山神社で獅子舞を奉納して、林昌寺(りんしょうじ)で解散するようになりました。
 
お寺は、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)定光寺末の林昌寺で、天和3年(1683)の創建と伝えられています。

うぐい川(木附)

 

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