|
玉川小学校・校区紹介
|
玉野用水 |
|
玉野用水の取り入れ口 |
定光寺の城嶺橋(しろがねばし)から300メ−トル程上流に、玉野用水の取り入れ口があります。玉野川(庄内川)から取り入れた水は、道路脇の幅3メ−トル程の水路を勢いよく流れ、約2キロメ−トル下流の発電所の中に落ちていきます。現在の玉野用水は玉野水力発電所と水路を共有しており、発電所の手前に用水の取り入れ口の水門があります。玉野用水のできる前の玉野村は田の少ない貧しい村で、農業のほか、農閑期の山仕事や藤箕(ふじみ)作りなどで生計を立てていました。村人達は長い間「玉野川の水を引くことができれば・・・」と思っていましたが、川の水は村より15メ−トルも下を流れているので、用水を引くことができません。
今から二百数十年前、玉野に川内八右衛門という人がいました。八右衛門は尾張藩士服部甚五左衛門(はっとりじんござえもん)の支配する土地の25人の農民を束ねる組庄屋でした。八右衛門は、上流の定光寺辺りから用水を引くことを考え、取り入れ口付近の地形を詳しく調べましたが、用水の引き易い場所は堰(せき)を造っても大水で流れてしまうし、堰の造り易い場所は取り入れ口付近の岸に大岩があって水を引き込めません。八右衛衛門は、「岸の大岩に穴を開けて水を通せば、きっと
玉野用水 |
うまくいく」と考え、村人達に働きかけたり代官所に願い出たりしましたが、協力は得られません。そこで、自分一人でやり抜こうと決心し、工事を始めました。石職人を雇い、6年間かけて大岩に長さ12間(21.6メ−トル)の穴を開けることができましたが、工事の費用がかさんで多くの良田を売ってしまいました。やがてこのことを代官所が知り、八右衛門は尾張藩から37個の葵(あおい)の紋(もん)のある刀一振りを賜(たまわ)りました。また、木附との境に残っていた八右衛衛門の田に十分な水が引けるように、藩の費用で「八池」が改修されたそうです。
その後、玉野用水は、玉野村の加藤助左衛門が庄屋森源八の協力を得、代官所の許可をもらって村人達と共に難工事に挑みました。たくさんの大きな籠(かご)に石を詰めて川に沈め、長さ30間(約50メ−トル)の堰を造りました。堅(かた)い岩を掘り進んで水路を造る工事は予想以上に困難でした。岩を割る職人は美濃方面からも呼んでありましたが、なかなか進まず、岩の上に薪を積んで火を焚(た)いたり、水が氷になるときに膨脹(ぼうちょう)する力を利用するなど、新しい工事の方法も工夫しました。その結果、文化年間(1804〜1818)に取り入れ口から玉野村の宮浦までの約2キロメ−トルの用水が完成し、村内の20町歩(20ヘクタ−ル)余の灌漑(かんがい)に利用されるようになりました。
定光寺にある玉野用水の碑
|
その後、安政3年(1856)に高蔵寺村から「用水の水を分けてほしい」という話があり、代官所の許しを得て工事をし、安政5年(1858)から高蔵寺村にも玉野用水の水が行くようになりました。明治になってからも玉野用水は何度も改修されましたが、大正8〜9年(1919〜20)に玉野水力発電所を造るために大改修され、ほぼ現在の姿になりました。
今も、毎年春分の日に、助左衛門の業績をたたえて、「助左祭り」が行われています。この祭りには、玉野町の水利組合の人達と助左衛門の子孫(現在は初代助左衛門から数えて8代目にあたり、名古屋市に住んでおられます。)が出席されます。代々の助左衛門が住んでいた家は、玉野郵便局から用水に沿って東に少し入ったところにあったそうです。
玉野用水の造られた時期については、「高蔵寺町誌」をはじめたくさんの本に書かれていますが、内容が少しずつ違っています。ここでは、郷土史家の村中治彦先生(元玉川小学校長)の説に従ってまとめました。
<玉野用水・参考年表>
o享保14年(1729) 加藤助左衛門が玉野用水の工事開始
o明和 5年(1768) 川地八右衛門が玉野用水の工事開始
o文化年間(1804〜18)玉野用水の完成(庄屋・森源八の協力)
o文化14年(1817) 加藤助左衛門没
o安政 5年(1858) 玉野用水・高蔵寺まで延長
o明治10年(1877) 森源八没
o明治33年(1900) 「玉野普通水利組合」設立
o大正 8年(1919) 玉野水力発電所建設に伴い大改修(大正10年完成)