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玉川小学校・校区紹介
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天王祭り |
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天王祭りの山車 |
○天王祭り
玉野の夏祭りは、天王祭り(津島神社の祭り)で、祇園祭りともいいます。
昔は旧暦の6月16日に行われていましたが、現在は7月16日前の土曜日の夜に行われ、このあたりでは珍しい(春日井市では玉野だけ)山車からくり人形が披露(ひろう)されます。戦後の一時期までは、飾り付けから後かたづけまで3日間かけて行われ、祭りの当日は、太平寺から天王社までを笛の演奏やからくり人形の披露をしながら山車を引く「道行き」が行われていました。その後青年団の消滅や祭礼組合の解散により昭和34年(1959)に中断されてしまいましたが、昭和59年(1984)に復活しました。現在は、五社神社の前の辻で囃子方(はやしかた)の笛の演奏とからくり人形の出し物が演じられ、地域の人々の楽しみの場となっています。
祭りの当日は、玉野郷土芸能保存会の人たちによって郷蔵(ごうぐら)から山車の車輪と松材の台車が運び出され、組み立てられます。それを五社神社前の辻まで引いていき、そこで残りの山車組みや飾り付けを行い、前台・恵比寿・大黒などのからくり人形が立てられます。夕暮れの7時半頃から祭りが始まり、囃子方の笛の演奏とからくり人形の奉納が3回行われます。人形の操作は玉野郷土芸能保存会の人たちが行いますが、笛は保存会に入っている玉川小学校の女子の児童たちも演奏します。子供たちは夏休みに入る前の約1週間、公民館に集まって保存会の人たちの指導で笛の練習に励んでいます。
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山車からくり |
〇山車からくり
玉野には、春日井市に一つしかない山車からくりがあります。
山車は松材の台に輪切りにした丸太に帯鉄(おびてつ)を巻いた車輪を付け、その上に檜(ヒノキ)材で3層の館が組まれた立派なものです。組み立て式で、幅5m、奥行き4m、高さ5mあり、1階には笛・太鼓の奏者10人位、2階にはからくり人形の操者7〜8人が乗り込みます。2階前台に立つ人形は唐人(とうじん)風で露払い、3階には綾錦(あやにしき)の装束をつけた恵比寿(えびす)様・大黒様と、赤地に波絵を描いたかめ(瓶)が乗っています。山車を軽くするために屋根は油紙を張った障子でできており、笹の竹を左右に下げて提灯を飾ります。
この山車は、江戸時代後期に造られたものを明治初年に再建したもので、内々神社の社殿と御舞台を造った諏訪(すわ)の立川和四郎(たてかわかずしろう)の高弟、川地白江守(かわちはくえのかみ)によって手がけられたものを、弟子たちが地元の材木を使って再建したものと推定されています。老朽化(ろうきゅうか)により昭和48年(1973)以後動かなくなりましたが、春日井市教育委員会から修理予算が出され、昭和59年(1984)に復活しました。
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からくり人形 |
「からくり人形」は、道行きの神楽に合わせ、まず前台の唐人風人形が采(さい)を持った両手を交互に上げて露払いをします。露払いが終わると、拍子木の合図で恵比寿様と大黒様が顔を合わせて魚釣りの相談をします。「大鯛(たい)を釣るには沖へ出る船がほしい!」と。そこで、大黒様が日和をみて瓶(びん)に槌(つち)を振り上げて割ると、中から帆掛け船が出てきます。その船に乗ってこぎ出し、恵比寿様が見事な鯛を釣り上げて、文字通り「めでたし、めでたし」といった筋を笛・太鼓と奏者がぴったり息を合わせて披露します。
人形を入れる長持ちの底部に名古屋の店から買った時期と思われる「明治5年(1892)」の文字が見られますが、からくり人形の正確な製造年代・作者は不明です。老朽化して動かなくなっていましたが、平成11年に坂下町の人形師萬屋文造(よろずやぶんぞう)さんの手で胴体や手を取り替え、頭(かしら)を塗り直すなどの大修理をしていただき、よみがえりました。
〇昔の祭りの様子
玉野天王祭りが盛大に行われていた頃の様子を、古老の話をもとにまとめてみました。祭りは数人の区の有力者からなる年行司と青年会によって組織された祭礼組合によって、3日間にわたって行われていました。年行司は各島の有力者の中から2、3人ずつ選ばれ、その年の祭り一切を取り仕切りました。年行司となる有力者の元へは、祭礼組合から青年会に入ったばかりの若い衆2人が使者として頼みに行きましたが、使者には玄関の入り方から座り方、しゃべり方に至るまで先輩から細かく指導されたそうです。
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お 神 楽 |
祭りは山車を出して飾り付けをする「新やく」、祭り当日の「本やく」、山車をたたんで片づける「山おろし」の3日間にわたって行われました。
「新やく」は、祭りの前日に山車を組むのが主な仕事です。朝、天王様前の広場に集まり、分解して郷蔵にしまってあった山車を広場で組み立て、太平寺前の広場まで引いていきます。途中、山車の通行の邪魔(じゃま)になるはみ出した竹や木の枝を切り、道の痛んでいるところは直しながら下がっていきました。道路を横切っている電線は竹を組んで上げ、はみ出している枝は庭木でも切ってしまったそうです。新やくと本やくの夜の二晩は、山車の番をするために当番を決めて山車の中で寝泊まりしました。
祭り当日の「本やく」は、昼間の中に前日に組み立てておいた山車に新しい竹や提灯(ちょうちん)を取り付け、からくり人形を飾って完成させました。提灯は、昼間は赤い小さなものを山車の周りに飾り、夜は火の入った赤い大きなものに変えました。下段は少し小さな提灯、上段は花柄の大きな提灯、一番上には津島様の紋(もん)入りの赤柄の大きな提灯だったそうです。道中で山車が揺れるので、一晩に十数個の提灯が燃えたそうです。
祭りの行列は、二本の長い提灯を持った5,6人の年行司が先導し、長い綱にとまった町内の人たちに引かれて、夕暮れ時に太平寺前の広場を出発しました。「綱にさわると夏病みしない」という言い伝えがあり、町内の人たちは綱を引かないまでも、一度は綱にさわったそうです。山車の中には、笛方(8人)、大太鼓・小太鼓(2人)、人形方(8人)の合わせて18人が乗り、出発前に1回、道中で3回、鳥居前(天王様前の広場)で3回、人形が踊りました。 道行きには「笹笛」(でく・木偶の笛)、人形の踊りの前には 「巻き笛」が演奏されました。
「山車おろし」は、朝集まって山車をばらし、人形の着物は土用干しをして郷蔵にしまいました。このとき、秋祭り用の 馬道具の土用干しも合わせて行いました。午後は庄内川やうぐい川でアユやシラハエ、鰻(うなぎ)などの魚を捕ってきて、一杯やったそうです。
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二十二夜様の盆踊り |
○盆 踊 り
玉野の盆踊りは二十二夜様の行事で、昔は旧暦の7月22日に行われていました。近年は8月22日前の土曜日に五社神社境内で行われ、神社係が一切を取り仕切って区の行事として盛大に行われています。
盆踊りの計画は氏子の代表による話し合いで進められ、数日前からは練習会も持たれます。当日は、氏子たちが神社に集まって、提灯山を組み立てます。提灯山の中心になる柱の高さは約10m、提灯を吊(つ)るす輪は5段で、提灯の数は108個あり、普段は柱は神社の境内に、輪と提灯は郷蔵にしまってあります。
日が暮れて軽快な太鼓の音に合わせて踊りの曲が流れると、町内はもとより木附・玉野台やニュータウン方面からも浴衣姿の人たちがどっと繰り出し、踊りの輪が広がります。踊るのは、以前は婦人会の人たちが中心でしたが、婦人会が無くなってからは婦人会のOBや子どもたちが中心です。また、境内では町内の人たちによる焼鳥や綿菓子、金魚すくいなどの店が出て、どの店も人だかりができます。
もともと、二十二夜様は太平寺西の小山の上に祀られている国平様(くにひらさま)の隣に祀られていたので、盆踊りは旧暦の7月22日に国平様前の広場で行われ、新暦の8月16日にも太平寺の前で行われていました。しかし、騒音などの苦情が多かったので、二十二夜様が五所神社の境内に移されたのを機に、昭和30年(1955)頃より神社の境内で行われるようになったそうです。
玉野の盆踊りは、昔は近郷近在の人たちが集まり、盛大に行われていました。昭和27年(1952)頃に高蔵寺駅前の広場で開かれた旧高蔵寺町の盆踊り大会では、若い衆(30歳くらいまでの男女)が参加して優勝したこともあったそうです。