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玉川小学校・校区紹介
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玉川小学校の旧校区 |
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玉野・木附は春日井市の東の端に位置し、多治見市境まで続く広大な山林のほとんどは校区に住む人たちの 持ち山です。耕地が比較的少ないので、米作りや養蚕のほかに広大な持ち山を生かして藤箕(ふじみ)作り、マッコウ作り、割り木作りなどの農閑期(のうかんき)の副業が行われてきました。中でも、玉野の藤箕は江戸時代から尾張藩に認められた特産品として知られ、昭和30年代まで盛んに生産されていました。

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藤箕作り
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○玉野の藤箕(ふじみ)
近郷(きんごう)の童歌(わらべうた)に「玉野タンタン藤叩き」と歌われた、玉野の藤箕について調べてみましょう。藤箕というのは、米や大豆などの農作物をすくって運んだり、選り分けたりするときに使う、藤と竹で編んだ道具です。玉野の藤箕は丈夫で使いやすく、形が一定なので秤(はかり)としても使え、重宝がられました。
玉野の藤箕作りは、今から500年前の室町時代に清洲の国平という落武者が玉野に住み着き、藤と竹で作った箕を売って暮らしていたときから始まったと伝えられています。江戸時代には尾張藩によって保護され、玉野だけに作ることが許された特産品として、農閑期の副業にほとんどの農家で作られていました。明治以後も盛んに作られましたが、昭和40年代に入ると農業の機械化が進んであまり使われなくなり、平成4年(1992年)に最後まで藤箕作りの伝統を守っていた加藤菊さんが亡くなって、作る人がいなくなりました。「高蔵寺町誌」によれば、藤箕作りが盛んだった昭和の初め頃の年産額は、およそ6千円でした。男子日雇労働者の普通の賃金が1円50銭の頃のことです。
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玉野で作られた藤箕 |
藤箕の材料となる竹はこの辺りにはどこにでもあり、容易に手に入ります。藤は周辺の山に自生し、大木に巻き付いて大きくなり、春には紫色のきれいな花を咲かせます。藤が巻き付いた木は日光が当たらず、やがて枯れてしまうので、藤は他人の山でも自由に切ることが出来ました。村人たちは、地元のほか瀬戸や多治見方面の山を歩いて、藤(藤づる)を集めました。集めた藤は、水に浸けておいて皮をむき、槌で叩いて柔らかくしてから干して竹といっしょに編みました。
出来あがった藤箕は、村人たちが背負って近辺の村々のほか、岐阜県の東濃(多治見方面)や西濃(岐阜方面)へも売り歩きました。また、遠方へは夏に仲買人がお得意さんの家を回って売り歩きました。「箕」を「身」にみたてて新しい箕で正月の餅を運ぶ習慣のあった地方もあり、毎年だいたい決まった家で買ってくれたそうです。玉野の藤箕は丈夫で使いやすかったので、高く売れました。現金収入が多く金遣いも荒かったようで、魚の振り売り商(てんびん棒で担いで魚を売り歩く商人)から「玉野は景気がいいのでよく売れる」といわれたこともあったそうです。
後に、藤箕を作り始めた国平様に感謝して、村人たちが社を建てて祀った国平神社が太平寺の西に今も残っています。現在の社は、平成5年(1993年)に隣接する金比羅神社と共に立て替えられました。
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マッコウ |
○ 木附のマッコウ
細野細道たんぼ道
外之原街道の棒担ぎ(ぼうかつぎ)
木附生マッコ上マッコ
玉野タンタン藤叩き(ふじたたき)
高蔵寺コツコツイズク堀り
木附・玉野に昭和初期まで伝えられていた 童歌で、女の子はこの歌に合わせてお手玉をしたり、まりつきをして遊んだそうです。マツコウはツバキ科のヒサカキのことで、この辺りの山には広く自生しており、榊(サカキ)の代わりに神前に供えたり、乾燥した葉を粉にして線香の材料にしたりします。木附のマッコウは特に質がいいので、「生マッコ上マッコ」と歌われたそうです。
当時の木附は戸数70戸程の山村で耕地も少なかったので、農家の人たちは冬場の農閑期に薪取りを兼ねてマッコウを刈り集め、葉を粉にして副業にしていました。人々はマッコウを取りに西山(現在の自衛隊駐屯地付近)や東山(木附の東北方面の山)、時には、高嶺(たかみね:木附で一番高い山)を越えて岐阜県との堺付近まで出かけました。冬休みには、子どもたちも刈り取ったマッコウを背負って、何度も家まで運びました。
マッコウの葉は「マッコ葉」と呼ばれ、乾燥して粉にして線香の材料にします。刈り集めた マッコウは、春先まで家の周囲の日当たりのよい場所にムシロ一杯に広げ、よく乾燥させて保管します。日光によく当てて、葉が赤茶色になるまでよく乾燥しないと細かい粉にならないので、冬の間はどこの家の庭先もマッコウで埋め尽くされたそうです。
春先になると、保管しておいたマッコ葉を古くなった木臼や石臼でコツンコツンとよくうち砕き、二度三度と次第に目の細かいとおし(ふるい)にかけ、粒のそろった粉にします。細いつるでできた「大目とおし」で木の皮を除き、金網の「中目とおし」で細かい粉に揃え、「細目とおし」で小石を除きます。
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マッコウ叩き |
出来上がった粉は俵や南京袋に六つ七つと詰めて保管し、仲買人が買いに来るのを待ちました。仲買人はマッコウの粉を手にすくって、「粒が揃っているか」、「色やつや、匂いはどうか」など、厳しく品定めをして値段を決めたので、農家の人たちは高く売れるようにと手間・暇をかけて粉にしました。粉を売ったお金は、お盆に子どもの靴や帽子を買ったり、修学旅行費の足しにしたりしたそうです。仲買人に買い取られた粉は、線香の材料として大須の商店に売られました。
また、当時は土葬(どそう)だったので、亡くなった人は風呂桶のような棺に入れられ、隙間(すきま)にぎっしりとマッコ葉を詰めました。そのため、どこの家にも一抱えほどのマッコウが保管してあり、葬式が出ると近所の人たちが持ち寄ったそうです。
昔は大切だったマッコウも今では使われなくなりました。玉川小学校の西門へ上がってくる通学路の脇にもたくさんありますので、興味のある人は手に取ってみてください。
○ 山 稼 ぎ
木附・外之原から定光寺にかけての一帯の山の多くは、木附・外之原の人たちの持ち山です。昭和30年代になると、経済の高度成長と共に石油やガスが工場や家庭の燃料として一般に使われるようになりましたが、それ以前はこの辺りの山から切り出した「割り木」や「ごう(松の落ち葉)」が燃料として広く使われていました。特に、割り木は、瀬戸や多治見で陶磁器を焼く窯の燃料として欠かせませんでした。
割り木を切り出すことの出来るのは、税務署の鑑札(かんさつ)を持った「山師(やまし)」と呼ばれる元締めで、木附・外之原・細野にそれぞれ1人から3人の山師がいました。山師は山の持ち主から「一山幾ら」で1年間その山から自由に木を切り出せる権利を買い、人を雇って木を切り倒し、割り木を作らせます。
雇われるのは地元の人が多く、のこぎり・なた・斧(おの)などの道具は自分持ちでした。切り倒した木を30pくらいの長さに切って斧で割った割り木を1〜3 mの幅で肩の高さくらいまで積み上げたものを「たな」といい、「たな1枚幾ら」の歩合制で賃金が支払われました。
たなで半年くらい乾燥させた割り木は、しょいごで背負って林道の脇にある荷場(にば)に集められ、牛車や馬車で瀬戸や多治見方面へ売られていきました。税務署は山師の儲(もう)けを査定して税金をかける仕組みになっていたので、大口の取引は山師にしかできませんでした。しかし、家庭用の小口の取引は一般の人にも認められていたので、リヤカーに割り木やごうを積んで瀬戸方面に売りに行き、帰りには陶器や日用品を買ってくる人も多かったそうです。
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木附の柿の木 |
また、木附では「さわし柿」がたくさんとれたので、割り木やごうといっしょに売り歩きました。さわし柿というのは、渋柿(しぶがき)に湯をかけて4斗樽(たる)に詰め、4〜5日藁(わら)をかけておくと渋が抜けて甘みの強い熟し柿になります。おいしいので珍重され、高く売れたそうです。いろいろなお菓子が出回って、今ではさわし柿はほとんど作られなくなりましたが、木附一帯では今でも秋になると見事に色づいた渋柿が見られます。
このように、木附や外之原は昔から個人持ちの山が多く、農閑期に山稼ぎで生計を補っていた人たちがたくさんいました。一方、玉野の山は村持ち(区有林)でしたが、
昭和32年(1957)の豪雨で定光寺の山が崩れた後、国鉄が保安林として買収したので、山はほとんどありません。まとまと山が少なかった玉野は農業が中心で、ほかに割り木などの荷を運ぶ馬車屋が7、8軒あったそうです。